葉っぱは緑が嫌い


1.葉っぱは何故緑色か

図1.葉っぱを透過する光

 何故葉っぱは緑色なのでしょうか。緑といえば、すぐ植物が浮かんでくるように、緑は植物を象徴する言葉として定着しています。
 植物の成長には、太陽の光が必要ですが、一口に太陽の光といっても、太陽光線には色々な色の光が含まれています。赤、橙、黄、緑、青、藍、の七色です。植物から見れば、大雑把に分けると、青色光、緑色光、赤色光、近赤外光(遠赤色光)の四つに分けられます。このうち、聞きなれない近赤外光とは、赤より少し暗い色で、植物にとっては重要な光です。これらの全てが混じると白色光になるわけです。
 この他にも、紫外線や赤外線が含まれています。さて、図1.は葉に太陽光線を当てたときに、どの色の光が葉を透過し易いかを示しています。横軸に光の波長を、縦軸は透過する光の相対的な量をポンチ絵で示しています(単位はありません)。この図は、縦軸の値が大きいほどその色の光が葉をよく透過することを意味しています。これによれば、太陽光線が葉に当たると、青色光や赤色光は葉を透過しないことがわかります。つまり、これらの光は葉に吸収されてしまうのです。
 ところが、緑色光は全てというわけではありませんが、透過します。森や林の中で、空を見上げたときに、つまり葉っぱを裏側から見たときに、葉っぱを通り抜けた緑色光が目に入り、葉が緑色に見えるというわけです。
 葉が、青色や赤色に見えないのは、葉がこれらの光を吸収して通せんぼをするからです。図1.の近赤外光も緑色光より以上に葉に吸収されません。
 このことについてはもう少し後で述べることにします。光を透過するということは、逆にいえば、葉の表面では反射するということです。

電磁波の種類 紫外線 可視光 赤外線
波長 ←100〜380nm→ ←380〜780nm→ ←780〜1000nm→
見えるか見えないか 見えない 見えない
単位:nm[ナノメーター:10−9m]

 したがって、葉は上から見ても、下から見ても緑色に見えるというわけです。つまり、葉は緑の光を受け入れないのです。葉っぱは緑の光が嫌いなのです。
 参考までに、電磁波の種類とその波長、これらが見えるか見えないかなどについて記しておきましょう(上図)。 
 

2.葉っぱはどんな色にみえるか

葉っぱはどんな色に見えるか

 葉は、どんなときでも緑色に見えるかというとそうではありません。どんな色の光の下で見るかによって、あるいはどんな色素を含んでいるかによって、葉の色は変わって見えるのです。
 自然界では青色だけの青色光や赤色だけの赤色光はありませんが、実験室ではよく見かけます。
 たとえば、こんな実験をしています。葉を青色の光のもとで見ると何色に見えるでしょうか。つまり、葉が青色以外の色をまったく含まない光線を受けると、何色に見えるかという問題です。
 まず、青色ですから、緑色を含んでいません。したがって、緑色の光が無いわけですから、緑色の反射も透過も起こりません。かといって、青色は葉の好きな色ですから、葉に吸収されてしまいます。そうすると、葉は、反射したり透過する光を何も含まないので、黒く見えるしかないのです。
 それは、赤一色の光の場合もまったく同じことが起こります。すなわち、赤い光を当てた場合も、緑色の光は無いので、緑色の反射も透過も起きません。赤色は葉に吸収されますから、葉は黒く見えるというわけです。
 それでは、葉を緑色だけの光のもとで見ると何色に見えるでしょうか。もうお分かりですね。反射や透過をするのは緑色だけですから、葉は緑に見えます。このように、葉は、光の色を識別していることが判ります。

 ところが、秋になると日照時間が短くなり、根の働きが弱って葉でつくられた糖分が枝に送られず、葉の中で、赤い色素のアントシアンや黄色い色素のカロチノイドに変わります。モミジやイチョウでこれを見てみましょう。
 モミジの葉を例に取れば、最初、葉の中には緑色の色素のクロロフィル(葉緑素)と黄色の色素のカロチノイドがあります。夏から秋にかけて、緑色の色素のクロロフィルが分解され、黄色の色素のカロチノイドと赤い色素のアントシアンが目立ってきます。秋が深まると、赤い色素のアントシアンが多くなり、葉の色も赤くなります。
 イチョウでは、春から夏にかけては、緑色の色素のクロロフィルと黄色の色素のカロチノイドがありますが、秋になると、クロロフィルが分解されて、カロチノイドの黄色が目立ってきます。さらに秋が深まるとクロロフィルがなくなり、カロチノイドの黄色一色になります。 

すなわち、「紅葉(こうよう)する葉」にはアントシアン、「黄葉(これも、こうようと呼ぶ)する葉」にはカロチノイドという色素が細胞液に蓄積されるわけです。
 ここで大事なことは、

@.葉が緑や赤や黄色に見えるのは、葉が緑や赤や黄色の光のみを反射あるいは透過して、それ以外の光を吸収してしまうからである。
A.クロロフィル(緑)、アントシアン(赤)、カロチノイド(黄色)などの色素は、色素が持っている特定の色の光のみを反射あるいは吸収する性質を持っている。
の二点です。
 つまり、「緑の葉」にあるクロロフィルという色素は「緑色光」を、「紅葉する葉」にあるアントシアンという色素は「赤色光」を、「黄葉する葉」にあるカロチノイドという色素は「黄色光」を反射あるいは透過するという仕組みになっているわけです。


3.発芽

発芽できない光

 
 種子について考えて見ましょう。種子が、もし光の当たらないところで発芽したらどうなるでしょうか。光が当たらなければ、発芽しても自分でブドウ糖やデンプンを作ることが出来ず、直ぐ枯れてしまいます。したがって、種子は日の当たる場所で発芽しなければならないのです。
 種子はどうやって「発芽していいかどうか」を判断するのでしょうか。そこで、先ほどの「葉っぱは緑が大嫌い」が種子の発芽に役立つのです。というのは、種子は色を感じることが出来ますから、「発芽する場所に緑色の光が多い」ということになると、その場所にはたくさんの植物が生えているということを意味します。つまり、発芽しても自分の嫌いな緑の光ばかりだということが判るわけです。結局、緑色の光は発芽してはならない光の色ということになります。
 光を大きく分けると青色光、緑色光、赤色光、近赤色光の四つがあると書きましたが、このうち近赤色光は葉っぱにほとんど吸収されないことがわかっています。ということはこの光は葉っぱに当たっても、光合成に役に立たないということです。つまり、緑の光の場合は少しは光合成に役に立ちますが、この光が当たると発芽が阻害されるわけです。
 実は、種子が発芽するかどうかを判断しているのは、緑の光ではなく、この近赤外光のあるなしに関わっているのです。近赤色光を多く含む光が当たるということは、種子が多くの葉っぱが茂った下にいることを意味します。すなわち、発芽しても生きていけない場所であることを種子は知るわけです。葉っぱに吸収されない光は役に立たないというわけです。

4.疑問点
 
 ここまでは今の生物学ではよく知られた事柄です。この話はうまく出来ていますが、よく考えてみると、葉っぱが太陽光線を最も効率よく吸収するには、全ての波長の光を吸収すればよいわけです。ところが、赤色や青色の光を吸収する色素が多いのに、なぜ緑の光を吸収する色素が極端に少ないのでしょうか。
 もし、そのような色素があれば、葉っぱは黒くなるはずですね。そして、自然淘汰が働けば、黒い植物が地球を支配するはずです。「葉っぱは緑でないと」という人がいるかもしれませんが、それは単に緑色を見慣れているだけで、最初から葉っぱが黒色であれば疑問に思わないはずです。
 しかし、現実にはそのような黒い植物を私たちは見たこともありません。進化の歴史の中で、黒い植物の発展を妨げる何かがあったのでしょうか。あるいは、黒い植物では効率が悪くなるような物理的な原因が何かあったのでしょうか。

 科学に関する本を読んでいると、科学者は「何故、そのようになるのか」という問いに答えようとしているわけではなく、「そのようになっていることを検証しようとしている」だけであるということが判ります。
 「何故、万有引力は距離の二乗に反比例するのか、何故、距離の二乗で、三乗ではないのか」、「何故、光の速さが30万km/秒なのか」、「何故、葉っぱは緑色なのか」等々の基本的な問いかけには答えることが出来ません。ただ「そうなっている」としか答えられないからです。
 かって、自然を研究することは、神の意図を理解し、神の存在を証明をするための重要な作業でした。事実、ガリレイやニュートンの著作には神の名がよく出てきますし、「神が創った宇宙だから美しいはずである」という信念で研究に励んできた科学者が多かったことも事実です。神の存在と自然科学は、少なくとも近代科学の黎明期では、なんら矛盾した関係にはありませんでした。
 ところが、時代を重ねるにつれて、神の存在を証明しようと進めてきた自然科学は、逆に神の不在を導き出すような皮肉な結果を招くことになりました。神の御技(みわざ)と思われてきた様々な現象が、「物質の運動」で説明でき、神の助けが無くても一向に構わないということが判って来たからです。
 とはいうものの、科学者は、「何故」という問いかけに答えることが出来ないのですから、神と完全に手を切るわけにはいかないのです。このあたりはアインシュタインの言動の中にも神を巧妙に利用しているところが出てきますし、筑波大学名誉教授の村上和雄氏の一連の書にも「something great」ととして、よく登場してきます。
 このように、科学者が神を持ち出すのは、「科学は全知でない人間の営みに過ぎない」ことを思い出させるため、と言えるかもしれません。つまり、科学の法則には必ず適用限界があり、「絶対正しいと信じ込んではいけない」という警告なのでしょうか。
 上記のように、「葉っぱは、黒色でもいいのに」という勝手な想像は、「何故」が解明されない限り、見当はずれの疑問なのでしょうか。人間が「何故」を解明出来る時は来るのでしょうか。

2004.1.11